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海防艦型巡視船について(仮)

1944年から1966年までの変遷と活躍

概  説

旧海軍海防艦 鵜来型・日振型
 昭和29年1月に、海上保安庁へ編入された5隻の元海防艦は、第二次大戦末期、輸送船などの船団輸送に随伴して敵潜水艦や飛行機からの攻撃を防御反攻する目的で建造された艦船である。 その内、海上保安庁に移管された5隻は、鵜来型と日振型に分類されるが、基本線図は同じで装備が三式投射機搭載型の鵜来、竹生、新南、志賀と大掃海具装備型の生名というように装備上の変化程度に留まっているため同型艦と見る事が多い。

 昭和19年から20年にかけて鵜来型並びに日振型の海防艦は、日立桜島造船所、日本鋼管、浦賀船渠、三井造船玉野、佐世保工廠で総数29隻建造され就役した。構造としては第二次戦時標準船として急造に適したもので船体ラインの直線化や工程の簡易化が図られ量産性が著しく向上したが、使用される鋼材等は民間商船並みに粗悪鋼である事が多かった。

 当該海防艦の諸元は以下の通りである。

   
排 水 量:(公)1,020トン
  搭載燃料:重油 120トン
  全  長:72.50メートル
  全  幅:9.10メートル
  主  機:艦本式22号ディーゼル機関×2基、2軸推進
  吃  水:3.05メートル
  出  力:4,200馬力
  武  装: 12cm単装高角砲1基(前配置)12cm連装高角砲1基(後配置) 25mm3連装機銃5基、爆雷120個
  最大速力:19.5ノット
  航続距離:5000浬/16ノット
  乗員定数:150名
昭和19年5月15日 日本鋼管鶴見造船所で進水する鵜来(さつま) 鵜来型海防艦 屋久 昭和19年10月23日竣工

掃海活動
 終戦当時、日本近海の主要港湾水路や沿海航路には投下型、敷設型を含め55000個或いは、それ以上とされる機雷が海中を漂っていた。その為、触雷事故も頻発していた事から機雷除去が急務となっていた。 日米で掃海活動が始められた時、日本側が参加した掃海艦艇は記録にあるだけで163隻、記録に無いものを含めるとその倍以上の船艇が荒廃した日本の海を掃除していた事になる。

 その内、旧海軍の海防艦で掃海活動に参加したのは21隻程であった。後に海上保安庁に移管される生名、竹生、鵜来、新南、志賀も掃海活動指定艦に含まれ、その活動は昭和20年9月1日の米軍大進駐による一時中断を除き絶え間なく続けられた。また、掃海船の中では大型艦艇であった海防艦は小型の掃海船艇を束ねる掃海母艦として日夜、日本の掃海に従事した。

掃海活動後の各艦動向
 昭和21年、各地で掃海活動が続く中、前項に挙げた5隻は特別保管艦となった。これは通常の運行が可能で船体、航行装置及び機器等が充分使用に耐えられ保安上も懸念のない状態に維持管理する事を意味した。終戦を迎えると電探装置、銃砲類の兵装が取り外されていたが、更に戦後使用された掃海用具や復員者用居住施設などの仮設物も逐次撤去していき、最終的には竣工当初の状態にまで復旧させる事を目的とした。

 掃海活動に参加した5隻の海防艦の内、アメリカ軍の傭船となった志賀を除く4隻は、引き続き佐世保地方復員局に所属したまま、昭和21年3月に壱岐水道の掃海活動を終了させた後、大竹(広島県)、徳山(山口県・現周南市)、舞鶴(京都府)の各掃海部に所属替えした。

 新しい所属先では主に掃海作業員のホテルシップ(宿泊船)として利用されたが、昭和22年11月に運輸省中央気象台に移管される事になり、北方海域及び南方海域の定点気象観測の任務に当たる為、4隻は東京へ終結した。

昭和21年9月1日 舞鶴掃海部
宿泊艦として使用中の新南(つがる)

昭和21年7月28日 呉を出港し宿舎兼
掃海母艦となるべく徳山へ向かう竹生(あつみ)

国鉄 関釜連絡船になった海防艦 志賀
 他の4隻とは違う扱いとなったのは海防艦志賀だった。特別保管艦として横須賀・長浦港に繋留されていたが、昭和21年11月に在日アメリカ海軍司令部から博多〜韓国釜山に於ける米軍将兵の休養及び人員輸送の専用船を傭船せよという命令が下り、海防艦志賀に白羽の矢が立てられた。

 当時国鉄は、関釜航路用に金剛丸、興安丸という7000トンクラスの大型渡洋客船を擁していたが、金剛丸は昭和20年5月27日に触雷事故で擱座運行不能となっており修理して傭船するには難しく、興安丸だけが利用できたものの半島から引き上げる在留邦人の輸送を優先していたのに加え、船体が大き過ぎる上、多数の船員を必要したので米軍にとっては融通が利かず経費面からも指定から除外された。

 また、同航路に就航していた3000トンクラスの景福丸は空襲で壊滅状態にあった青函航路の助勤船として8月20日に函館へ回航され、同クラスの徳寿丸も朝鮮半島から引き上げる在留邦人の輸送に駆り出された上、船齢も25年と古いことから米軍専用船への転用は遠慮された。

 そこで大凡1000トンクラスの船を欲していたと言われる在日アメリカ海軍司令部は、旧海軍残存艦艇の中から勘案して博釜間米軍輸送専用船へ改造するには海防艦の大きさと船員数が適当と判断し海防艦志賀を選んだ。

 指定を受けた志賀の改造は三菱造船横浜船渠で行なわれた。改造工事によってブリッジを航路警戒の為、船腹位置まで拡幅したワッチ用ウイングが設けられ、それに伴いブリッジの天蓋も延長された。 船体は、船首楼甲板からブリッジを抜け煙突前まで拡張して長船首楼型船形とし、船首楼から増設けられた船室には上級士官用キャビン、同炊烹室及び応接室が設けられていた。 また、船首露天甲板上には士官用サンデッキと天幕を設け、続く船楼甲板上にはボート甲板が追加され救命艇4隻とダビッドが設けられた。後部船室部分には下士兵用寝台室(二段4名)と炊烹室を設け、後部露天甲板にも下士兵用サンデッキと天幕が設けられるなど、ヨット式船形に改造された。

 この改造によって志賀は船体を白一色に塗り替えられ、アメリカ陸軍の将兵輸送の為に仕立てられたことから艦名もアルファベットで「US ARMY SHIGA」と2条書きされた。ファンネルには管理する陸軍司令部のシンボルマークが取り付けられ、更に後部マストには星条旗が掲揚されるなど、一見して米軍建造の艦艇と見紛うような様相となって玄界灘を行き来する事となった。

 艦の大きさでは1000トンと米軍側が自前で用意した500トンクラスの特務艦や小型輸送船改造の他船に比べて大型であり、玄界灘を凌波する速度を備え、スマートな船体は動揺にも強かったので九州と半島を行き来する米軍将兵にクルーズ気分を味合わせるに充分な設備と内容を誇った。元より用船についは航海、機関関係を従来の乗組員が担当し、事務、船客関係は国鉄の門司鉄道管理局と関釜連絡船航路の所属員に依っていた。特に事務部船客掛が船舶制服のまま乗務し関釜連絡船と同様のサービスを提供したので米軍将兵から大いに好評を博したという。 これについては経費面で日本側に負担を求めた米軍側が、志賀を博多〜釜山間の米軍連絡船として運用する際、その要員を米軍の乗組員ではなく同航路を運行管理していた国鉄門司鉄道管理局に運用を委任した事により実現したからである。

 博釜連絡船となった志賀は、博多を07時00分に出航し、釜山には同日の16時00分に着き、掛かる所要時間は9時間だったのに対し、他の交通船は04時00分に博多を出港して釜山には同日16時00分に到着して12時間も要していた。当然の事ながら米軍将兵の人気は設備も整っている志賀に集中し、志賀に比べ3時間以上も掛かって行き来する鈍足船は敬遠された。 因みに志賀の博多出帆日は毎週月曜と木曜で、釜山出帆日は翌日の火曜と金曜であり、連絡船の用船及び燃費は日本側の提供で賄われ国鉄、及び運輸省の特別予算に組み込まれていた。

 昭和24年1月28日、国鉄の打ち出した博多〜釜山間航路の中止、更に同年4月12日、伝統ある関釜連絡船の主要航路だった下関〜釜山間の中止によって永らく続けられてきた国鉄・関釜連絡船事業は永遠にその幕を閉じた。これを受けて好評だった志賀の米軍用連絡船運行も終焉を迎え米軍傭船からも解除された。そして同年12月、再び、特別保管艦に戻るため横須賀・長浦港に帰着したが、改造された故か賠償艦やスクラップにもならず暫く白い船体を岸壁に繋ないでいた。

改造後、試運転中の米陸軍専用連絡船・志賀

艦首のアルファベット船名と星条旗が米軍用連絡船である事を如実にを表わしている。
信号旗は、[P] [ I ] [R] を示すように見えるが、この組み合わせの三字信号は不明

新任務 定点気象観測
 博釜連絡船になった志賀と前後して昭和22年11月1日にアメリカ極東海軍部は、洋上に於ける定点気象観測の為、生名、竹生、鵜来、新南の4隻を中央気象台に所属させ、監督省庁である運輸省が艦を保管するとの命令を下した。この目的は、米国が日本上空に有する航空路に対する気象データを日本側の観測によって把握する事と日本周辺の天気図の内、必要な気象観測データが入らない外洋上にある空白地域のデータを埋める為に気象観測員が乗り組んで観測業務を行なうという二本立てのものであった。そのうち特に南方の定点観測では、日本列島に接近する台風に関係するデータを提供するもので、その重要度からアメリカが関係する運用総額の75%を負担していた。
※大戦中、日本近海及び、南洋上で台風に遭遇した米艦艇が多数損傷しており、これを恐れて神風タイフーンと言う者もいた。

 それまでの4隻は、上構部分で旧来の海防艦と大きな変化は無かったが、本命令により気象観測に適した改修及び加工を施され多少の変化が生じた。その部分は次の通りである。

 
1、後部12cm連装高射砲が在った部分にラジオゾンデ用の放球室と気球用ガスボンベ保管室を設けた。
   これは煙突の後部に位置する炊烹室から直接繋がる形で新設している。

 2、船尾末端より15メートル付近の甲板上に曳航用ウインチを設置した。

 3、前部マスト後方の機器室、或いは放球室に隣接して気象観測用の百葉箱が設置された。


 これにより外装的には気象観測に相応しいものになった。また、艦内には気象観測員の居室や海洋実験室なども整備された。そして艦名に「丸」を付けて運用された元海防艦は、装いも新たに気象観測船として北は北緯39度、東経153度位置に、南は北緯29度、東経135度の位置で洋上定点観測が始められた。
※実際には掃海艦当時から連続的に使用されてきたので痛みも相当残っていた。

 定点観測船の活躍の内、南方定点観測の実際行動は次のようであった。観測船は観測位置(南方観測定点は、室戸岬沖500キロ洋上の北緯29度、東経135度地点)に到着すると機関を停止。漂泊しつつラジオゾンデの放球、気圧、風速、風向、時間内変動を観測した。しかし、僅か1000トン程の細長い船なので良く揺れた上、漂泊地点から風や海流により流されたので一日に1度エンジンを起動して圧流した分だけ戻り、観測定位置の半径25マイル(約45キロ)円内に船が留まるよう移動していた。

 また季節柄、真夏の観測時には船が洋上に漂泊するだけなので舷窓からは殆ど風が入らなかった。ましてや船内に冷房装置が無い当時である。観測室や船員居室は、うだるような暑さとなった。しかし、それだからと言って海に飛び込み涼を摂ろうとする者は居なかった。それは船から投棄される雑排水や残飯に魚が集まりそれをエサにする鮫が群がり危険だったからである。このように真夏の観測は艱難酷暑の連続であった。

 昭和25年に入ると博釜連絡船として活躍していた志賀が傭船解除となり、僚艦と同じ中央気象台に移管され、共に定点観測任務に就く事となった。ここに初めて5隻の元海防艦が東京・芝浦埠頭に勢揃いして名物的な光景となった。

 尚、本項についての詳しい記述は、平成19年3月末発売の
月刊丸(潮書房)5月号通巻733号に【艦艇秘話】台風観測に挑んだ旧軍海防艦として写真入りで詳しく掲載されているので、これ以上の解説は該誌内容に譲る事とする。

海上保安庁への編入
 昭和23年5月1日に開設された海上保安庁は、時の運輸省に設置された不法入国監視本部を母体に水路部と灯台部を統合して発足した組織である。かくして海のGメンが誕生した訳だが、その任務は、海上の安全確保と違反行為の予防、海上事件の捜査、及び水路灯台それに付随する標識灯の保守管理を担うなど多岐に渡っている。

 さて、5隻の定点観測船は、アメリカ側が昭和28年12月を以て定点観測費用の打ち切りを打診してきたので、都合上、業務を縮小して台風シーズンの5月から11月の間だけ南方定点観測を継続する事となった。

 昭和29年1月1日、5隻の元海防艦だった定点観測船は揃って海上保安庁に所管替えする事となった。この時、5隻は正式に日本政府に返還された事になり海上保安庁の巡視船として新しいスタートを切る事となった。5隻の本業務は従来の定点観測の他、巡視船としての業務も行えるよう再度改造を施されて編入した。
昭和29年 海保に編入直後、舞鶴にて改修を待つ
PL104 さつま
昭和29年 海保編入後、舞鶴にて改修作業中の
PL104 さつま と PL105 つがる


海防艦型巡視船の誕生
 それまで旧海軍の海防艦だった頃の艦名を冠していた5隻であったが、海上保安庁に編入するにあたり新しく船名が付けられ、また船種船号も付与された。その新名と配属、役務については以下の通りである。

 船名/生名→生名丸→おじか(牡鹿) 船種船号/PL102 配属/塩釜  役務/定点観測
 船名/竹生→竹生丸→あつみ(渥美) 船種船号/PL103 配属/横浜  役務/定点観測
 船名/鵜来→鵜来丸→さつま(薩摩) 船種船号/PL104 配属/鹿児島 役務/巡視船兼定点観測予備船
 船名/新南→新南丸→つがる(津軽) 船種船号/PL103 配属/舞鶴  役務/巡視船兼定点観測予備船
 船名/志賀→志賀丸→こじま(児島) 船種船号/PL103 配属/呉   役務/海上保安大学校練習船


 5隻は巡視船になるにあたり兵装、前後マストの新設、操舵室前部回廊或いはワッチウイングの拡張など、諸所の改造及び改修を施されて巡視船然となった。また観測船当時は旧海軍塗色に準じていたが、海上保安庁に編入するにあたり船体を白一色に塗り替え他の巡視船と同様となった。

 尚、海防艦型巡視船が装備した砲填装置は以下の通りである。

 1、3インチ(76ミリ)単装砲 1門 
 2、20ミリ単装機銃 2基
 ※いずれも米軍供与による


3インチ(76ミリ) 50口径 砲(Mk22)
昭和27年建造、改45トン巡視船ちふり型4番船PM−21 しきね による
米軍供与3インチ(76ミリ)砲の射撃訓練(昭和31年3月撮影)

20ミリ 単装機関銃(Mk10)
昭和28年12月1日、アメリカ軍よりエリコン式20ミリ単装機銃11門の
供与を受け逐次増備していった。通常射程は約1キロである。

昭和29年 改修作業完了後、舞鶴港内で試運転中の PL104 さつま


本稿の出典及び参考文献
 「海上保安庁十周年記念誌」 海上保安庁 1958
 「終戦と帝国艦艇 −我が海軍の終焉と艦艇の帰趨−」 福井静夫著 共同出版社刊 1961
 「丸スペシャル 28 海防艦」 潮書房 1979
 「関釜連絡船史」 広島鉄道管理局 1979
 月刊 世界の艦船 各号
 月刊 丸 各号
 個人収蔵写真
 海防艦関連webサイト他

本稿については、浅学な為、内容には不足する事が多いと思いますが
、訂正が必要な部分については、是非とも白い船掲示板にてご指摘下されば幸いです。
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