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戦時下の連絡船建造

戦時に輸送力増強を目的に建造された戦時標準型車輌渡船

■ 戦時標準船とは

昭和17年(1942年)2月16日交付された
勅令第六一九號により、国内の船舶のうち長さ50メートル以上の鋼製船舶の建造と修繕等は海軍大臣が所轄する事になり、造船を監督する海軍艦政本部は、各造船所の建造能力に合わせて同一船種を短期間に建造する事を目的に、船体の形状、構造、装備を簡素化させて大量の同一船種を一挙に得ようとした。この目的によって策定され建造された船舶が戦時標準船である。戦時標準船は第1次戦時標準船から第4次戦時標準船まで計画され、各次期ごとに特徴的な船舶設計基準を策定した。

第一次戦時標準船 第二次戦時標準船 第三次戦時標準船 第四次戦時標準船
昭和17年4月策定 昭和17年12月策定 昭和18年12月策定 昭和19年3月策定
戦前の船舶改善助成施設実施に伴って設計され、平時標準船と簡易化設計された鉱石船と油槽船を加えたもので構成される。比較的余裕のある船質と機関性能が付与されていたが、戦況の悪化に伴い繰り返し簡易化が実施され、遂には第二次型へ移行する事となった。 南方戦域の船腹喪失増加に伴い、性能を犠牲にして形状構造を極度に簡易化し量産体制を強化したのが特徴。機関の出力性能が著しく下がり速力も乏しく、構造上も二重底を廃して徹底した資材節約をするなど船形の直線及び平面構成と相まって、更なる工期短縮を可能とした。 船腹損失が更に悪化し性能低下と相まって敵攻撃に捕捉され易いと指摘され、二次型と同じ簡易船形及び艤装ながら機関出力増加で高速化し船艙に隔壁を増設して防沈性を高めたのが特徴。挙国体制で建造にあたったが、極度の資材不足により完成を見ない船が殆どだった。 深刻な戦局の悪化により敵制海権内を超高速で渡洋できる機関性能が要望されて策定された。既に国内での組織的な計画造船体制は崩壊状態にあり、戦後に小型船の一部が完成したのに留まっている。


■「鐵道は兵器だ」・・・国鉄の戦時体制と青函連絡船


勅令第五一二號
をもって公布実施された「鉄道輸送協議会官制」によって組織された同協議会は、「昭和一七年度第二 四半期鉄道輸送策定方針」を決定し、鉄道大臣に対して「海運ノ現状ニ鑑ミ海陸輸送計畫ノ連繋ヲ一層密ナラシメ、且ツ陸上輸送ヲ以テ海上輸送力不足ヲ可及補足シ時局下重要物資ノ確保ニ努ムルコト、之ガ爲特ニ輸送輻輳スル線區ノ輸送力増強及水陸連絡設備ニ關シ重点的措置ヲ講ズルコト」と諮問した。東條内閣はこの諮問に従って昭和17年10月6日に閣議を開き、「戰時陸運體制ノ確立ニ關スル方策」を決定した。この決定の措置策として、「北海道炭輸送ニ付テハ、現青函貨車航送力ヲ最大限度ニ活用スルノ外、現ニ建造計畫中ノ貨物航送船(二八OO屯級)四隻ヲ急速ニ竣工セシメ、年間二五O万屯程度ヲ目標トシテ輸送力ヲ増強ス」という方針を打ち出し、青函航路増強の意志を国策として明確にした。

その後、鉄道省と陸海軍部は昭和天皇臨席のもと、「大本営政府連絡会議」を開催。ここで、「此ノ如キ輸送力増強ノ爲ニハ貨車ノ増積、海陸連絡特ニ搭載設備ノ増強、青函連絡船ノ増加等各種ノ手段ヲ講ズルノ要アリ」という、八田嘉明鉄道大臣の発言が全面的に取り入れられる形となり、青函連絡船の増強計画が正式に了承された。この御前会議で国鉄側の意見が採り入れられた裁可が下された背景には、内地の工業地帯と国鉄機関車の燃料向けに北海道炭の輸送が不可欠であり、戦時に於いて戦力一切の生みの親である石炭を何よりも最優先して輸送しなければ総力戦に臨めないとした考えが、物理的にも明らかであったからに他ならない。




■ W型 産みの苦しみ・・・国鉄と海軍の対立

鉄道省が要求する車両渡船新造案に対して海軍省と商船関連の戦時標準船全般を監督する海軍艦政本部第四部商船班の小野塚一郎海軍技術少佐、並びに浦賀船渠駐在造船監督長の小田勝海軍造船大佐は、青函丸型連絡船の大量建造が短期集中することに対して、先に海軍管理下のもと竣工した第四青函丸を参考に国鉄側の設計には贅沢部分が多く残されていると批判し、鉄道省の設計案と要求に真っ向から反対した。

小野塚少佐の反対理由として、

 
1、石炭輸送という単一物資の輸送に対して重点化する船質ではない。
 2、陸上施設が空襲された場合、専用設備が伴う連絡船は転用が利かず運用不適切。
 3、15ノットの高速船を特定の航路に用いるのは船腹不足の折から不得策。
 4、荷役の局所集中は戦時輸送上避けるべき。
 5、海峡連絡と物資運搬は他の船形でも可能であり、性能からして外航用に転用すべき。


とした。
更に小田造船監督長も第4青函丸建造の贅沢面から工程と船質を見直す案として

 
1、工作を簡略し工程を少なくした小野式直線船形を採用し、船橋(ブリッジ)前曲面を肋骨一本分に抑え梁矢(キャンバー)を無くす。
 2、外板を理論値強度で得られる最も薄いものにする。
 3、強度に影響の無い部分は木材を多用する。
 4、士官個室を廃しタタミ敷きの大部屋方式とする。


と言った、新造連絡船の簡易構造案を提示してきた。この事から海軍は青函航路に最も適した船質は1D型船標船で充分だと主張した。因みに1D型船標船は、全長82.3メートル、船幅12.2メートル、深6.2メートル、速力10ノット、総トン数1900トンというレシプロ機関船で、青函丸形と比較すると7割程度の大きさながら重量物運搬を目的とした船尾機関式船形を持ち、長大な船上ハッチと船倉に大型デリックを備え、積載量は連絡船よりも1.3倍以上有ることから軍部も好んで徴用した船種だった。船価的にも連絡船より5割程安くなることから軍部は猛烈に1D戦標船導入を主張した。これに対して国鉄側は1D型船標船と改青函丸形車両渡船の輸送力想定を試算した上で海軍部に反論した。

鉄道連絡船は鉄道と連繋した輸送システムで構成されているので、貨物自体の積載時間を考えた時、港湾荷役能力から見て、貨車航送は1D型戦標船が17時間掛かる所、鉄道連絡船は僅か1時間で荷役作業を終了する事ができる。更に船速が鉄道連絡船の2/3程度としても1往復に要する時間では荷役も含めて2日近くも掛かる結果となる。この事から鉄道省は、

 
1、同質同量の物資を運搬する場合、年間の可搬量は連絡船が3倍以上。
 2、上記輸送量を充当するのに必要な船腹についても3倍必要。
 3,港湾設備もそれに合わせて大幅な拡張が要求される。


これら理論的数値を盛り込んだ現実論を展開して1D型戦標船導入による巨額の資金投入が現実にそぐわないことを証明して見せ鉄道省側が、海軍部案を封じ込めるのに成功したのである。そして艦政本部は昭和17年11月に同18年度末に竣工を予定するとしたW型戦時標準型連絡船の建造を了承し、建造には第4青函丸に携わった浦賀船渠が引き続き建造を続けこととなった。ここに、戦時標準型連絡船の設計理念が確定し、国鉄によってW型と命名された車両渡船が誕生するに至った。このW型戦時標準船は、船質から設計に至るまで一般の戦時標準船枠とは異質ものであるが、船体工作や利用機関については、第2次戦時標準船規格と同等水準となったので、機関部を中心に性能低下の影響をまともに受ける結果となった。
※W型戦時標準船のWとは、Wagon=貨車から取ったものである。




■ 第五青函丸から始まるW型戦時標準船の基本設計

第五青函丸は、青函丸の中でも優秀船として建造された第四青函丸の船体線図を基礎として、昭和17年12月に策定された第二次戦時標準船規格に準拠して設計された。その為、鋼鉄資材の使用を大幅に削減し工期と船価を極力抑える事が優先された。しかし、後にそれが致命傷的問題を生じさせる原因となった。

戦時標準船の簡易化及び変更事項一覧
(第四青函丸を基準船とする)
第四青函丸 第五青函丸 第六青函丸 第七青函丸 第八〜十青函丸
 線  図 試験所型
第三青函丸を改良す
小野式
第四青函丸型を基礎とす
同 左 同 左 同 左
 船  形 第三青函丸に対しフレームの曲がり減少せるも、尚かなりの曲がり有り 工程数減少の為出来うる限りフレームの曲がりを少なくし直線式とす 同 左 同 左 同 左
 深 6.6mにして、200mmのキャンバ有り 6.8mとしキャンバを廃す 同 左 同 左 同 左
 第二甲板 機関部員室及びその他の者室に使用す 後部は存置せるも居住設備無し、前部は鋼甲板の大部分を撤去す 前後部共に鋼甲板の梁と桁板は大部分を撤去し一部ビームを残置す 全部撤去す 同 左
 船楼甲板 一部甲板板撤去
船橋前21.8m
幅2.8m2箇所
船橋後33.3m
幅2.8m2箇所
同 左 同 左
 二重底 区画式全通二重底 単 底 同 左 同 左 同 左
 煙  突 4本(各舷2本) 2本(各舷1本) 同 左 同 左 同 左
 舷  門 各舷1個 左舷1個 同 左 同 左 同 左
 船首部甲板
(但し鋼甲板の一部を撤去す)
同 左 同 左
 船尾キャプスタン 2台 1台
(後日1台を増設す)
2台
(但し1台はウインチを使用す)
同 左 2台
 タンクゲージ 空気圧力式 同 左 同 左 同 左 同 左
 水中聴音機 同 左 同 左 同 左
 砲  架 同 左
 甲板舗装 車輌甲板は全面ツルミ・エラスタイトを、船員室及び通路はマプラスを以て舗装す 車輌甲板はコールタール、高級船員室のみマプラスにて舗装す 車輌甲板は機械室上部のみツルミ・エラスタイト舗装、他はコールタール塗とし各船員室の通路にはマプラス舗装 同 左

但しボイラ室上部にもツルミ・エラスタイト舗装
同 左
 木甲板 船橋楼甲板船首尾及び中央部甲板室周囲並に船首尾への通路 船首部のみ木甲板、他はバラ打板とす、尚、船橋楼甲板室前後の鋼甲板を一部撤去す 船首部のみ木甲板、他はバラ打木とす 全部バラ打木とす 同 左
 塗  装 船橋楼甲板上面以外は全部塗装す 船橋楼甲板上下面、同外板内面、船倉外板内面甲板は塗装せず 同 左 同 左 同 左
 船長機関長室 各一室を有す 二人一室としソファを寝台代用とす 各一室を有す 同 左 同 左
 高級船員室 一運、一機、事務長は各一室、二運、三運及び二機、三機は二人室、通信長、通信掛は無線室内に一室を有す 遊歩甲板室内に大部屋を造り六畳敷とす 遊歩甲板室内に大部屋を造り二重寝台を設く 同 左 同 左
 甲板部員室 船首部分甲板に設け、水手長、大工及び船庫手、舵取手、水手各一室を有す 同 左 同 左 同 左 同 左
 機関部員室 船首部第二甲板に設く、火手長、機庫手、操機手、火手、各一室を有す 同 左 同 左
(但し舵取手室を除く)
同 左 同 左
 事務部員室 船橋楼甲板室内に設け、給仕、料理人各一室とす 同 左 同 左 同 左 同 左
 予備室 船橋楼甲板室内に一室を設け寝台ソファを置く 船橋楼甲板室内に一室を設け畳敷とす 同 左 同 左
 事務室 船橋楼甲板室内に一室設く 船橋楼甲板室内食堂と兼用す 遊歩甲板室内に一室を設く 船橋楼甲板室内に一室設く 同 左
 その他の者室 後部第二甲板に畳敷一室を設く 同 左 同 左 同 左
 警戒隊員室 船橋楼甲板室内に一室設け二重寝台17個を設置す 遊歩甲板室内に隊長室一室及び隊員室一室を設け隊員室は二重寝台とす 同 左
 高級船員食堂 船橋楼甲板室内も設く 同 左
事務長室と兼用す
船橋楼甲板室内に一室設く 同 左 同 左
 部員食堂 車輌甲板前部に甲板部員食堂一室、前部台に甲板上に機関部員食堂を一室設く 船橋楼甲板室内に一室設け事務長室と兼用とす 船橋楼甲板室内に一室設く 同 左
 調理室 船橋楼甲板室内に高級船員用、車輌甲板前部に部員用各一箇所 船橋楼甲板室内に一箇所 同 左 同 左 同 左
 配膳室 一室有 同 左 同 左 同 左
 浴  室 高級船員用二箇所
甲板部員用一箇所
機関部員用一箇所
船橋楼甲板室内に一箇所く 同左の外に部員用一箇所を増設す 遊歩甲板室内に高級船員用一箇所、船橋楼甲板室内に部員用二箇所を設く 同 左
 洗面所 高級船員用は各室に、
部員用は浴室兼用
船橋楼甲板室内通路に共用のものを設く 同 左 同 左
但し高級船員用は浴室に設く
同 左
 便  所 大小便用三箇所
小便用二箇所
大小便用一箇所 大小便用二箇所 同 左 同 左
 氷  庫 二箇所 一箇所 一箇所 大型一箇所 同 左
 冷蔵庫 一箇所 大型一箇所 同 左 同 左
 ボイラー スコッチボイラ
径 4100mm
長 2500mm
加熱器付
6個
乾燃室標準二号型
(海務院制定)
径 4600mm
長 2600mm
加熱器付
4個
同 左

過熱器無
4個
同 左 同 左
 プロペラ マンガンブロンズ 鋳 鋼 同 左 同 左 同 左
 プロペラ軸 ゴム巻 ペイント塗 同 左 同 左 同 左
 潤滑油ポンプ ウエア式 ウォシトン式 ウエア式 同 左 同 左
 ビルジポンプ ウォシトン式 同 左
 補助復水器 真空式専属ポンプ付 大気式 同 左 同 左 同 左
 主  機 浦賀船渠会社製
二段原則歯車付衝動タービン
2550S.H.P.
2基
日立製作所製
二段減速歯車付衝動タービン
3000S.H.P.
2基
第四青函丸と同じ 同 左 艦本式
甲25型タービン
2250S.H.P
2基
 主機据付方 式付 同 左 左右共に右回り主機据付 同 左 同 左

●汽缶(ボイラー)の特徴
第四青函丸まではスコッチボイラー6缶による加熱蒸気運転で翔鳳丸型と同じ4時間30分の船速を確保できて性能的にも完成された戦前の優秀船だった。
第五青函丸からはボイラーを乾燃室式4缶に減数という逆行措置となり出力も低下、更に第6青函丸では加熱器さえも取り払われて飽和蒸気で運転した為に出力は上がらず船全体の運転性能は劣化していった。

●主機(タービン)の特徴
上記の一覧の内、
第五青函丸の主機については陸軍特務船に使用される筈だった日立製作所製の大型インパルスタービンを流用させられ、それに伴い機関室内の設計で苦労した。

第六青函丸は再び浦賀インパルスタービンを採用したが、加熱器を省略した汽缶力量では出力も上がらず性能的に劣ってしまった。

第八青函丸以降は、2T戦時標準型タンカーの主機用として設計された甲25型タービンという単シリンダー機を連絡船用に歯車減速比を変更して製作したものを使用した。
この主機は一段小歯車1個、一段大歯車2個、二段小歯車2個、二段大歯車1個という構成で組立調整に困難を極め、複雑で工作に精度を要するものだったことから戦時の大量生産には不向きなものであり、構造全般を見ても欠陥が多数散見され、タービンスラスト、クローカップリング、歯車などに故障が続発した。更に加熱器を取り払ったボイラー4個では運転蒸気を供給するには足りず、第四青函までは高温高圧蒸気(330°C、22kg/cm2)で運転できたものが、第8青函丸では、280°C、16kg/cm2の蒸気で2基の2250S.H.Pタービンを運転しなくてはならず、能率はすこぶる低下した。この4基のボイラによる蒸気不足と相次ぐ機関故障と相まって後期の青函丸型は理論上ばかりでなく実用に於いても定時運行の確保が出来ない低能船になってしまった。

●船体の特徴
船体的に見ると、第五青函丸から第十青函丸までは全く差異がなく、大戦末期には第四次戦時標準船規格が有ったにも関わらず、船体ライン図は各船で第五青函丸のものをそのまま流用した。その船体は両舷が垂直平面となり、吃水上からなだらかに丸くカーブする船体だった第三〜第四青函丸とは趣をがらりと変えてしまった。特にステム部分に辛うじてファッションプレートは付けられているが、その垂下部から船底に掛けては直線になっている。更に船腹に目を移すと車輌甲板の線上でナックルラインが付けられ、それ以下から船底にかけて若干の曲線を描いた構造をし、船首部分ではナックルライン以下が逆テーパーとなっている為にフレアと同じ凌波作用をする部分となっている。この設計による凌波性は運用上問題ないらしく、後の洞爺丸に至るまで同じラインを流用している。この第五青函丸以降の船だが、他の戦標船を見てもこのような線形は無く、連絡船の構造に特化した船体設計だったといえ、それを以てしてW型戦時標準船と言わしめたのは納得がいくものである。

●構造の特徴
船体構造的には、船体の構造部材厚が極端に薄くされ、第5青函丸では約720トンもの部材重量を軽量化し、第四青函丸と比較して約25パーセントの省資材化を達成したうえで起工建造が進められた。但し、軽量化が原因となる問題によって第六青函丸からは国鉄が指定した部材を利用して建造されたので、第五青函丸のような問題は起きなかった。これについては次項に詳細を譲ることにする。

また二重底が廃されたのでフレームが露わになった船底となっている。通常、二重底で設けられる二重底頂板(内底板)も省略されているが、主機とボイラーの設置部には辛うじて床材を置き、機関作業と焚火作業が出来るようにしてあった。また船底部付近の区画へ通じる通路と区画ごとの床には木板を敷いたとされている。
極端な外板厚の薄化により、軽微な底触や座礁事故に対しても防沈性が確保できず、構造上でも極端に弱い船体となってしまったのは否めない事実で、国鉄が戦時下に設計した国策船第一号である第五青函丸は昭和20年3月6日青森港の北防波堤西端に右舷側板を擦過。吃水線付近に破孔が生じ沈没した。薄い外板と相まって隔壁等の構造物は必要最低限の寸法で区画され、更に各部材も軽減孔(ライトニングホール)で軽量化されていたので防水区画として機能せず、浸水時に水密化出来ないまま船内に海水を流入させることとなった。




■ Wの悲劇・・・第五青函丸の失敗

●構造上の失敗
昭和18年6月29日に浦賀船渠で起工した第五青函丸は、第四青函丸が進水まで13か月掛かった所を僅か5カ月と言う驚異的なスピードで建造が進み、昭和18年12月29日に6カ月という短さで竣工している。しかし、竣工までの数ヶ月は第5青函丸にとって受難の始まりであり、国鉄にとっては不愉快極まりないものであった。

11月の進水に続き艤装を続ける浦賀船渠では12月初旬に国鉄(鉄道省)、海軍省、造船所の三者による定例工程会議で浦賀船渠側は国鉄設計案に手直しを施し、独自の建造計画で使用部材の軽減を推進した結果、予定排水量より750トンも軽く完成させたと報告し、海軍側も表彰に値すると喜んだ。しかし、国鉄側の設計陣は排水量トンの減少を危惧した。船体寸法に変更がない上に船体重量が軽量化した場合、吃水線より船腹が大幅に浮き上がる。その結果、船体はトップヘビーになってしまい、更に貨車積載時に搬入重量分だけ船体が傾斜するので横復元力が低下する。造船所側が提示してきた値で貨車の積み卸しをした場合、最大斜度が約8度になり、ヒーリングポンプによる傾斜補正をしてもまだ4度も傾斜が残り、鉄道省令で定める傾斜限界角4度を越し、貨車を積み下ろそうとすると二軸貨車の場合、車輪の三点支持一点浮き上がり現象を引き起こして脱線することが理論上確実になった。辛うじて貨車を無事に積載できた所で満載喫水よりも船体は水面より高く浮かぶので航行上のバランスが悪くなり、最悪の場合は転覆の恐れさえ出るのである。当然であるが、国鉄側は規定値2倍以上の傾斜と船体浮き上がるような船では用船側としては受領して使用できないと海軍部と造船所に具申した。

これに驚いたのは代船建造を求められた海軍建造監督部と造船所側だった。最初は国鉄の計算結果を全く受け付けなかった海軍側だったが、浦賀船渠の設計課長による計算結果が国鉄提示のものと同じになったことから態度を変え、対策を至急協議するとしたが、監督するだけの海軍部では結局は全く手を付けられない状態に陥ってしまっていた。造船所側も勝手に目論んでやったことなので、どう取り繕うことも出来ず、このまま第五船はこのまま廃棄になる恐れさえ出始めた。これに対し、最初から建造ミスに気付いていた国鉄側は既に必要措置案を講じていた。それによると、

 
1、空艙になっている第三艙を海水の注排水トリミングポンプを設けた深水槽に改造して600トンの水を注水できるようにする。
   
※この第三艙の水槽は貨車積み込み時に使用されるヒーリングポンプ制御の傾斜復原用舷側水槽とは違い専ら船体の加重のみに利用される。
 2、深水槽の加重では水槽重心が船央より若干前方にトリムするので、船尾操舵機室前の第2甲板推進軸室に砂利150トンを搭載して船尾側トリムを0.3メートルに復する。
 3、750トンの加重により満載喫水を規定値に復し、航行中は深水槽を排水して船重量を軽減し、船尾加重によるトリムがバイザスタンとなるので速力増加と燃料軽減が可能。


この国鉄船舶課の弾き出した試算による対策を造船所側が持ち帰り検討した結果、国鉄案が最良と言うことになり海軍部もそれを承認した。造船所側は早速、深水槽改造図を起こして改造に取り掛かり、ようやく竣工させることが出来た。この改造工事の時、船尾に搭載した150トンもの砂利は相模川から特別列車を仕立てて浦賀まで運び込んだものだった。これに懲りた海軍部は後の工程会議でも鉄道省監督官の意見を最も尊重するようになり、第六青函丸の建造以降は鉄道省の元設計通りの鋼材量で建造するようになった。


●用船計画上の失敗
青函航路での船務は他航路とは違っていたことから船員の勤務体系も特殊なものとなっていた。僅か4時間程の航海だったが1日2往復可能だったので昼夜兼行の運航ダイヤが組まれるようになり下船無しの折り返し航海が当然のように行なわれるようになった。更に戦争突入により船体も船員も予備に事欠き、更に船務環境は劣悪を極めるようになっていった。そこで青函連絡船ではダブルハンドシステムという画期的な勤務形態が生まれることになった。これは1船に乗組員を2組作り、ほぼ一昼夜連続の乗船勤務で2日〜3日ごとに交代勤務するものだった。いわゆる公番と反対番が生まれるようになり交互に上陸して休養できるようになった。この制度が導入されたのは昭和17年12月からだった。

また、この制度以前から、連絡船の乗組員は船上での自炊、睡眠、休養を全部摂っていた。乗船中は船員食堂で賄われた食事を摂り、各職種により睡眠時間もバラバラであるから個室で時間ごとの仮眠休養を摂っていた。これを海軍部は贅沢だとして全面撤廃を打ち出した。食堂は不要として弁当持参の乗船を強要し、船長と機関長を含めた士官船員の居室は大部屋にすると共に普通船員も職別で同様の大部屋を設け寝台を止めて畳敷きにした上で仮眠休養は同室の雑魚寝で十分だと主張してきた。さすがに用船側の不満は噴出し、特に大部屋での雑魚寝は士官と呼ばれる海技職乗組員からは不満意見が噴出した。しかし海軍建造監督長がこの案を頑して譲ろうとはせず、第五青函丸はこの通りに建造が進んだ。

この状況を打開しようと鉄道省側では法令上の回避策を思いつくだけ挙げてみた。食堂については、時化、漂流、回航では乗組員が上陸することも出来ないので賄室は必要と主張し、これを認めさせた。船長室と機関長室については軍機扱いである暗号書の保管責任者用居室が必要と主張し、その結果海軍省からは軍機暗号書保安指針に従って一室2寝台を設けても良いという答えを勝ち得ることが出来た。しかし、それ以外はどうすることも出来ず高級船員であっても大部屋の畳で雑魚寝と言うことになってしまった。

しかし、先の構造上の欠陥を見事に見抜き、その対策まで講じることが出来た国鉄に対して、海軍側も造船全般の監督を国鉄側に任せるようになった。これにより海軍が主張していた、大部屋船員室で船員が雑魚寝するといった環境は早くも第六青函丸では取り払われ、船長室と機関長室は各一室ずつと元通りに戻され、各種船員室についても大部屋ではあったが全て寝台を設けられるようになった。

上記文中、国鉄側は法令上の回避策を講じたと記したが、工程会議の席上、国賊呼ばわりをした海軍監督官に対して、天皇陛下の官吏に発した暴言として「官吏侮辱罪」を持ち出し、横暴かつ強硬に主張を押し通そうする海軍側を一喝の内に沈黙せしめ一矢報いたというエピソードも残っている。

●復旧されなかった第五青函丸
昭和20年3月6日、第96便として貨車39両(積荷/石炭903トン)を積載して函館を出航した第五青函丸は、海峡付近に停滞した低気圧の影響で発生した暴風の中、20時過ぎに青森入港を決意。しかし、暴風雪の為に船は圧流され青森桟橋接岸に失敗。再度着岸を試みようとして青森港外に出ようとしたが、左舷から猛吹雪を伴う強風のため操船に困難を来たした。益々圧流された五青函は、投錨しつつ機関操作で圧流を防ごうとしたが、操船の甲斐無く北防波堤西端に右舷側板を衝撃擦過。

吃水線付近の錨鎖庫と一番艙に破孔が生じたのと、投錨と圧流で船首部が突っ込む状態となったので、船体保持から揚錨して沖館付近浅瀬に座礁を試みた。しかし、汽缶室にも浸水が生じ青森港2番ブイ北方600メートル付近で右舷45度傾斜したまま遂に沈没した。

衝撃(20:27)から沈没(20:50)までは僅か20分余りと短時間で沈没した背景は、戦時中と言う事もあり沈没調査の詳細が無いために分からないが、潜水調査によると沈没による損傷が右舷船橋部分にも見られ、貨車も2両転覆していた。船体頂部から水面までは4〜5メートルだった。

海中より引き上げ後の船体調査では、擦過で生じた破孔については復旧可能だったらしい。こうした低深度の沈没の場合、船腹確保の為にサルベージした後に修理復旧させるものだが、第五青函丸については建造段階で規格外の工作が施された事による貧弱な船体構造と暫定措置で行なわれた加重工事の無理がたたり、修理の指示は出されず船としての再利用は断念せざるを得なかった。

後の空襲で沈没した第六青函丸や戦後、15号台風で沈没した改W型・H型車両渡船は、復旧のうえ再就役できたが、第五青函丸にはそれが出来なかった。これは何よりも建造時に骨材や部材の極端な軽量化に拠る所が大きい。最初から国鉄側の設計通りに建造されていたならば復旧出来るだけの船体強度は保っていたのではないかと考えられる。これも産みの苦しみに泣かされたW型戦時標準船「第五青函丸」の悲劇なのかも知れない。




■ 災厄に祟られたW型戦時標準船

急造に継ぐ急造で性能も上げられないまま就役し戦時輸送で昼夜違わず酷使されたW型戦標船は劣性を改善される事も無く、多くの船が故障を頻発して運行に支障を来たしただけでなく、輸送力を担う為に投入された意味も見いだされないまま、終焉へと突き進んでいった。第五青函丸が就航した昭和19年から昭和20年までの一年間に起きた各船の故障や事故の状況を挙げてみると以下の通りとなる。
昭和19年 1月12日 第五青函丸 函館桟橋可動橋接合試験の際、翔鳳丸と衝突
昭和19年 4月12日 第六青函丸 機関故障 2往復運港が困難となり1.5往復運行とする。同月24日より修理開始し5月7日修理完了
昭和19年 6月30日 第六青函丸 機関故障 2往復運行が困難となり1.5往復運行とする。
昭和19年 8月30日 第七青函丸 494便として青森接岸の際、船首衝撃。9月2日まで休航
昭和19年 9月 3日 第七青函丸 機関故障 2往復運行が困難となり1.5往復運行とする。
昭和20年 2月17日 第七青函丸 青森堤川口付近に座礁。20日9時に離礁。
昭和20年 2月27日 第九青函丸 函館回航途中に千葉県勝浦沖で擱座沈没。
昭和20年 3月 6日 第五青函丸 青森港北防波堤西端に右舷側板擦過し沈没。
昭和20年 7月14日 第六青函丸 米空軍空襲により青森野内バッコノ崎沖にで被爆炎上の後沈没。
昭和20年 7月14日 第十青函丸 米空軍空襲により函館校外で被爆沈没。
※第七、第八青函丸は同日の空襲で被災しつつも損害軽微のため修理して2〜3週後に就役した。
青函丸と名付けられた船の中で傷を負いながらも戦禍をくぐり抜けて戦後も青函航路で活躍したW型戦標船は、第七、第八青函丸の僅か2隻だけだった。この戦争で多くの乗員乗客の命が奪われ大動脈たる青函航路は一時機能を停止し青函連絡船は全滅したのである。そして今も津軽海峡には3隻の連絡船が静かに眠っている。このようにW型青函丸は戦争という悲劇の中で傷付き姿を消していくように思えたが、戦後、建造中の第十一、十二青函丸が早くも就役し、博多釜山間の航路用に設計されたH型戦時標準船と合わせて続々青函航路に就役し、W型、H型青函丸は戦後日本の復興に大きく寄与したのだった。




■ 本稿の参考文献及び資料

・車両航送  山本熙著 昭和35年 日本鉄道技術協会刊
・白い航跡 青函連絡船戦災史  青函連絡船戦災史編集委員会 平成7年発行 北の街社刊
・鉄道連絡船100年の航跡  古川達郎著 昭和63年 成山堂書店刊
・日本の鉄道連絡船  古川達郎著 昭和51年 海文社刊
・わが青春の青函連絡船  坂本幸四郎著 平成2年 光人社刊
・世界の艦船  昭和55年10月特大号 特集・日本の鉄道連絡船 海人社刊

・図説 日の丸船隊史話  山高五郎著 昭和56年 至誠堂
・船舶知識のABC  池田宗雄著 平成7年 成山堂書店
・艦艇工学入門−理論と実際−  岡田幸和著 平成9年 海人社刊

・青函連絡船50年史  昭和32年 国鉄 青函船舶鉄道管理局 刊
・青函連絡船史  昭和45年 国鉄 青函船舶鉄道管理局 刊
・青函連絡船 栄光の航跡  昭和63年 北海道旅客鉄道会社 刊 
・日本国有鉄道百年史(第10巻) 昭和48年 日本国有鉄道 交通協力会刊

・浦賀船渠及び函館船渠調整図面
  資料提供 古川達郎氏 長谷川藤一氏

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